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未練 07

last update Last Updated: 2025-03-28 05:02:19

コンクールも受験も無事に終わり、あとは卒業式を迎えるだけのある日の放課後。二人は音楽室に赴いていた。

たくさんの思い出が詰まった音楽室、そしてグランドピアノ。

「ねえ、卒業記念にトロイメライ弾かない?」

「そうだな。これが山名と弾く最後のピアノか……」

「うん、そうだね……」

そんな会話をしてしまったために、二人の間にしんみりとした空気が流れる。

本当にこれが最後の演奏だ。コンクールがあるからという理由で切磋琢磨してきた時間も、卒業を控えているだけの二人にはもう必要がなくなった。

春花は胸の辺りをぐっと押さえる。

(この演奏が終わったら告白しよう)

これが最後のチャンスだ。これを逃したらもう告白できる気がしない。二人、進路は別々なのだから。

決意を胸に春花はピアノに対峙する。隣にいる静をいつも以上に感じながら、想いを込めて鍵盤を打ち鳴らした。

二人で奏でるトロイメライは最高に気持ちがいい。

ずっと弾いていたい。

ずっと曲が終わらなければいいのに。

弾き終わった直後、何物にも代えがたい高揚感が胸を熱くする。この余韻は忘れてはいけない。壊してはいけない。

そう感じたからこそ、春花は静にとびきりの笑顔をみせた。

「山名、俺……」

「ずっと応援してるね。私、桐谷くんのファン1号だから。有名になったらコンサートのチケット送ってよね」

「……ああ、わかった」

気持ちを誤魔化したあの日。

寂しく笑った静。

二人の気持ちは宙に浮いたまま、月日は流れた。

「あの日って……?」

「最後に二人でトロイメライを弾いた日のこと、覚えてる?」

「うん」

「あの時、俺は春花に伝えたいことがあったんだ」

「伝えたいこと……」

よみがえる思い出は春花の心臓をぎゅっと締めつける。込み上げる衝動は期待なのか、不安なのか。春花はじっと静の言葉を待つ。

「好きだ。高校生の頃からずっと。春花が好きだ」

あっという間に春花の心をかっさらうかのように、体の奥から忘れかけていた何かが解き放たれる。閉じ込めていた感情が溢れ出てくるのがわかった。胸が熱く、張り裂けそうになる。

「……私も。あの時本当は伝えたかった。桐谷くんのことが好きって。でも言えなかったの……」

「春花……」

あの時、お互い好き同士だった。お互い遠慮して勇気がなくて、心地よい関係が壊れてしまうのを恐れて伝えることができなかった。

一体何
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